鉄の聖域 - ミサゴの親子
Story behind the photograph

鉄の聖域

The Iron Sanctuary

写真の裏側にあるもの

写真家としての歩みを積み重ねる中で、私は「何のために写真を撮るのか」という根本的な問いを、より深く自分自身に投げかけるようになりました。数多くの撮影を重ねることで、撮るべきもの、あるいはカメラを向けるべき対象に対する思考が研ぎ澄まされていくのを感じます。そうした中で、ここ3年間、特別な想いを持って追い続けているのが野鳥「ミサゴ」の子育てです。

彼らはもともと、人里離れた山の中腹に巣を組んで暮らしていました。しかし、その山の工事が始まった途端、ミサゴたちは棲み処を追われ、姿を消してしまいました。人間による土地の開発が、彼らの平穏を奪ったのです。

ところが翌年、彼らはそこからほど近い鉄塔に新たな巣を築き上げました。人間に居場所を追いやられた生き物が、皮肉にも人間が作った鉄の構造物の上に「聖域」を見出し、新たな命を育み始めたのです。その野生のたくましさに強く惹かれるようになりました。

生態系への配慮

ミサゴは準絶滅危惧種に指定されており、本来その営巣の様子を撮影することは、野生動物保護の観点から非常に慎重であるべきです。SNS等への場所の公開は厳しく規制されています。そのため私は、日本野鳥の会と京都芸術大学と連携し、生態系に最大限配慮した「学術的な生態研究」としてこの記録を続けています。

私はただ見守る

ミサゴは警戒心が強く、人の気配を察知すると警戒音で鳴きます。撮影地は巣からおよそ150mの距離があり、藪の中から覗いているのでミサゴはこちらに気付いていません。彼らの「聖域」を脅かさないよう距離を保ち、私はただ見守ることしかできません。

容赦なく照りつける猛暑日の強い日差し、台風直撃による暴風雨、そして外敵の襲来。彼らの選んだ場所は過酷です。

傘をさしてあげたい。巣が飛ばないよう支えてあげたい。外敵を追い払ってあげたい。それでも、私は見守ることしかできません。

人に追いやられながらも、人との共存を選んだ彼らに、何をしてあげられるのか。

温暖化が進み、猛暑や台風が増加すれば、いずれここも彼らの安心できる居場所(聖域)ではなくなってしまうかもしれません。

私にできることは何なのか。「何のために写真を撮るのか」という問いに、向き合い続けています。

彼らから学ぶ

雛が小さい頃、心配になるほど激しい雨が降り始めました。すると、母親はすっと翼を広げ、雨に濡れないように子供を守ったのです。ミサゴのそうした生態は広く知られているわけではなく、目の前で起きた事実に、私はただ息を呑みました。

子供に対する親からの無償の愛。それは種を超えた普遍的なものであり、聖域でもあります。

親子という二つの重なり

この撮影には、いつも80歳を超えた父親と共に山へ向かいます。お互い年齢を重ねる中で、あと何年こうして共に山を歩き、同じ時間を過ごせるかは分かりません。ミサゴの撮影という目的は、実は父と一緒にいられる大切な時間を作るための「口実」なのだと自覚しています。

鉄塔の上で必死に子供を守り、育てるミサゴの親子を見つめているとき、私はそこに自分たち親子の姿を静かに重ね合わせています。二つの「親子」の時間が静かに交差していると感じているのです。

写真の枠を超えた、もう一つの源泉

ミサゴの写真を撮るために山へ向かうのですが、心の底では、ある種の逆説として『写真は二の次でもいい』とすら感じているのです。私たちの真の目的は、ミサゴの親子に会いに行き、その懸命な子育てを見守ること。そして同時に、私たち自身も親子二代でその無言の時間を共有することにあります。

この撮影を通じて私が考えているのは、「写真に写らないことを、写真に込める」ということです。

完成した一枚の写真に、父の姿は写っていません。しかし、父と肩を並べて息を潜めた時間、そこで交わした言葉にならない想いは、確かにそこに存在しています。その目に見えない時間が、作品の背後にどのような熱量や深みとなって現れるのか。それは私自身に対する問いでもあります。

「何のために写真を撮るのか?」という問いに対して、私の写真活動の源泉のもう一つの答えがここにあります。それは写真という結果や言葉になる領域を超えた、目に見えない時間の積み重ねの中に宿っているのです。